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生酛・山廃はなぜ少数派になったのか?

 明治時代に国税局技官の江田鎌治郎によって速醸酒母が発明されるまでは、日本中の酒は生酛、山廃酛、菩提酛で造られていました。大正十年発刊の江田鎌治郎の「杜氏醸造要訣」や大正十一年発刊の日本醸造協会近畿支部による「酒造乃心得」などの酒造教科書には「普通酛」として最初に生酛の解説があり、「速醸酛」は後のほうに書いてあります。生酛でつくるのが大正時代後半には普通だったようです。

 昭和になっても戦前はまだ生酛・山廃が主流だったようです。生酛系の酒母が圧倒的に少数派になっていったのは高度成長期に日本酒需要がどんどん伸びた時期のようです。生酛・山廃より速醸のほうが手間がずっと少ないので量産に向きます。この時期にアルコール添加、糖類添加の三増混和酒が日本酒の旺盛な需要にこたえました。

 私見ですが、この時期の級別審査の基準が色、老香、クセがなくきれいな酒質をもって最良とする事で生酛・山廃の熟成酒が評価されなかった事も生酛・山廃造りの減少に影響したと思います。これにより日本酒の味に個性がなくなり、日本中無難なおもしろみの無い酒ばかりになってしまったのではないでしょうか?

 またその後の吟醸酒ブームでも生酛・山廃の出番はありませんでした。きれいな味わいを理想とする吟醸酒は速醸酒母でつくるのが一番確実です。全国新酒鑑評会に生酛・山廃で出品するの金賞獲得の為にはかなり不利だと思われます。

 そして淡麗・水の如し・飲みやすいといわれるような酒質が主流になるとますます生酛・山廃の出番が少なくなってしまいました。生酛・山廃の伝統はこの酒の価値を認識していた一部の蔵元さんによって引き継がれてきました。

 生酛・山廃の酒が圧倒的に少数派になってしまたのには幾つか理由があると思います。その味わいが評価されなくなってしまった事の他に生酛・山廃造りは手間がかかり、速醸酛のほうが安全確実に酒ができる事があると思います。そのへんの事情を次回書きます。

 

 

投稿日時:2015年11月27日(金)│
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