生酛・山廃造りのよさは何か4
前回に続き 吉田集而 麻井宇介の対談を掲載します。
麻井 世間でいうように日本酒の極致は吟醸酒だと、僕はけっしてそうは思っていないけれども、お米から造るお酒で、しかも糖化の段階では微生物のアミラーゼに依存するという大枠の中で、たくさんの選択肢の中からある局面ではこの技を選び、次の局面ではこの技を選んだという、それはその当事者にとってはみな理屈があったと思う。そういった論理の結果として吟醸酒までいちゃった。その間、技術が特価していくことを「進歩」だと疑わなかった。切り捨てた局面では正しかったかもしれないが、それを全部集めたときに正しいかというと疑問です。
吉田 吟醸酒一点張りというのは困ったもんですね。あれだけが極致だと言われると寂しいものがあります。飲み手が選べるように、もっとバラエティがあるものを提供すべきですね。
麻井 日本酒の場合、吟醸酒をピラミッドの頂点において、これが極致だというふうに飲み手も造り手も思い込んだかもしれないけれど、そのことを一度ご破算にしないと、日本酒の可能性を自分で閉ざすことになってしまうんじゃないかと思います。私は、酒のうまさというものは、原料の中からいろんな成分をどうやってうまく取捨選択するか、良い成分をできるだけ多く残こすか、それが大原則だと思っているわけですね。私はそう確信しています。極端な言い方かもしれませんが、米を精白するというのは一種「風土性の抹殺」ですよね。ビールでもワインでもウイスキーでも、もともと原料の成分を工程の中に一度全部取り込むんですね。ところが日本酒は、仕込む前からそういうのを全部カットして、痩せた原料からスタートして酒を造る。これは酒類全般からみると非常に特殊なんです。で、それが日本酒の技だといって誇りに思っていた。その行き着くところが吟醸酒だった。だったらもう一度前に戻って、日本酒にはこういうものもあるよというところで考え直したらどうなのと思います。
吉田 日本酒の場合、もう一度古い技術を見直してほしいですね。いってみれば、自然の森で酒を造ってほしい。そして、多様な味の酒を造り出してほしい。冷で飲む辛口一点張りになっている。全部辛口に変わったのは、酒だけでなく料理と一緒に飲むようになったからだというのが一般的ですが、燗をするにはもう少しコクのあるほうがいい。辛口一辺倒ではどうも・・・・
麻井 ぬる燗をしてしみじみおいしいなと思える造りの酒がいつのまにか影がうすくなった。量販のところではこぞってコストダウンの方向にいった。かって一世を風靡した「淡麗辛口」という言葉も魅力を失った。すると次は何で清酒の良さを訴えたらいいのか。「濃醇」とか「豊麗」とか形容する言葉より先に、こういう酒こそおいしいんだという酒を造るべきですね。例えば生酛を本気でやるなら、かって山卸をしていた当時の作業を完全に復元する必要がある。デンプンの液化、溶かすという一点において撹拌する効果を見たら差がなかったので、あんなきつい労働はやめようよと、山卸廃止つまり合理化は始まった。しかしそれをやるかやらないかでは、微生物叢は違うんですよ。
吉田 酒の微妙さというのは、見えないいろいろな微生物によるものでしょう。それを自然科学を利用してやっていった結果、やや「純林」的なものになってしまった。いろんなものが混じると、それが、うまい酒になるかどうか、それはわからんですけど、いい「森」はつくれるのではないか。
麻井 単純に揺り戻しをしても、もしかしたら今の好みの基準でいえば、ダメかもしれない。でもそこに踏みとどまって、さらにその先へ進む勇気をもてるかどうかが大事です。なにも、大規模なスケールでそういうものを復権させるのではなくて、こういうものもあるよと造って、日本酒に忘れていた一面があったのかと、その共感の輪が広がるのを期待したい。やらずに議論してもダメです。
吉田 メーカーの論理で合理化し科学的にいろいろやってきたが、一方で飲み手がどう判断するかというと、これは別の話です。酒のうまさというものは何かと考えた場合、飲み手としてはいろんな酒を飲んでみて「なるほど」というのが欲しいですね。全部が同じ方法、同じ方向へいってしまうと、非常につまらない。もっと味の多様化に向けて進んでもらいたい。
麻井 酒というものが嗜好ということで飲み手と関係をもつならば、造り手はもう一度方向を考える必要がある。どんなお酒でも「感銘」を与えるか与えないかという一点に議論を絞れば、科学的に合理性を追求した技術に、かならずしも感銘の深さはないんですよね。感銘の深さというものには、いかに複雑であるか、いかに調和がとれているか、どういった独自のスタイルをもっているかというが関わってくる。私の場合、かってウイスキーでこの世にこれほどうまいものがあるのかと感銘を受けたことがありましたが、今それ(と同じ銘柄)を飲んでもさして感銘を受けない。それはかってまずいものばかりを飲んでいた時代にたまたま巡り合ったから印象が強かったというのとは全く違います。あきらかに今のものとは違った。これは日本酒の醸造技術について、吟醸酒の方向が「進歩」だというふうにして変わっていったのと同じように、スコッチの造り方も変わったという事です。モルトウイスキーが核にあって、グレンウイスキーとブレンドすることでマス・マーケットの商品として生産体制を確立するというところまでは、「文明化」の文脈で読み解くことができます。問題はその先にあります。 次、次回へ続く